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ビスケットの缶

金閣寺を想う

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エスプレッソを凍らせてミルクを注いだカフェラテでおやつ。
きんと冷たくて飲むほどにおいしい。

今日は珍しく蒸し暑い一日でした。
この夏、京都の金閣寺に行ったのをきっかけに、実家の本棚で見かけた三島由紀夫の「金閣寺」を再読しました。




昔読んだのは中学生くらい?それとも高校生だったかな。私が抱いていた三島由紀夫のいかついイメージ(亡くなられ方とかさまざまなエピソードから)と繊細で美しい文章とのギャップにとても驚きとともに印象に残りました。
あれから20年以上たって改めて「金閣寺」を手にしました。
男の子の母となった今、金閣寺に火をつけた主人公溝口を、今回は自分の息子を見るような気持ちで、読みかけだったものを昨晩ラストまで一気に読み終えました。
光をまとったような鶴川と、どもりのある溝口、内ほん足の柏木。小説に出て来る3人の青年たちの目で見る世界について想像しました。そして最後に知らされる鶴川の事実。

主人公の溝口はなぜ金閣寺を焼いたのか。
小説の中では、溝口と柏木が禅問答の公案「南泉斬猫」について何度も語るシーンが出て、その中に動機を見つけるヒントを見ることができます。
(この公案には諸説あるようですが、美しい猫をめぐって二つの寺がもめているところに南泉和尚が来て「どちらに真実があるのかみんながこたえられないなら猫を切る」と猫を取り上げるが、誰も答えられなかったので実際に猫を二つに切ってしまう。それを夜帰ってきた弟子の趙州に話すと、趙州は頭に履物をのせて出て行き、南泉和尚は趙州がいたら猫を切らずにすんだのに、と語ったという話。)
美の象徴である猫(柏木の説では)を切った南泉和尚と履物を頭にのせて出ていく趙州。お前だったらどっちか、と溝口に尋ねる柏木。
そのときは、自分が南泉和尚で、溝口が趙州だと語っていた柏木。二人が最後に語り合うときには、口には出さないけれど金閣寺を焼くことを心に決めた溝口と柏木と立場がいれかわっている。

内ほん足というコンプレックスをもって生まれて屈折した世界観を持つ柏木、でも柏木は「この世界を変貌させるのは認識だ」と溝口に語り、認識という言葉をもって世界に折り合いをつけて生きて行く道を見出している。それは趙州と似ているのかもしれない。
一方、溝口は柏木に「世界を変貌させるのは行為だ」と語る。
溝口は青年らしい潔癖さや、美意識にとらわれ、美しい世界と自分とに折り合いをつけれなかったのかもしれない。溝口が焼きたかったのは世界なのかもしれない。

今見る金閣寺は昭和30年に再建されたそうなので、私が修学旅行で初めて見たものも、再建された金閣だということを改めて知りました。
初めて金閣寺を見たとき私が持った違和感はこの夏改めて訪れて、今やっとわかる気がしました。歴史的な建物だけど、よく手入れされていて、私が学生のときとまったく変わらずまぶしいほどの金色に輝く金閣寺は、年を経ることを知らないような不気味なほどの美しさがあるように感じました。


by cinnamonspice | 2017-08-03 13:43 |